握りしめた掌を開く

なんだかこのところ、
決して忙しくしていたわけではないのだけど、
ふにゃふにゃと言葉を紡ぐ心気分ではなくて、
なんだかぼぉーっとしていた。
そんな中でつらつらとまとまらず考えていたことを並べてみたい。
 
 
むかし合唱曲で「二十億光年の孤独」というタイトルの曲があった。
すべての記憶はとても曖昧で確実性をもって断言はできないけど、
自分のクラスの選択曲ではなくて、
でもすごく深く印象に残った気がしていた。
もちろんそれが詩人・谷川俊太郎の作品であることは言うまでもなくて、
わたしは大人になって出会い直したのだけど、
その一遍の詩は簡潔な言葉を精緻に組み立てて編まれていて、
その筆力というかセンスや潔さを、いまなら心で感じられる。
メロディーは全然思い出せないけど、
タイトルとあの独特なフレーズだけがときどき胸の片隅を走る。
 
合唱曲といえばもう一つ忘れられない曲がある。
たぶんいますぐにでも検索窓に打ち込んでエンターを叩けば、
すぐに正解が見つかるのかもしれないけど、
なんとなくそうはしたくない。曖昧なままでこっそり仕舞っておきたい。
ちょっぴりほろ苦いような甘酸っぱいような、でもそこまでじゃないような、
思わずほおの奥がきゅんとすぼまるような感覚。
タイトルもメロディももはや思い出せないその曲は
またもや自分で歌ったわけではない歌詞の中で、
人は月まで行ける技術を持ったけど、
自分の家である母なる地球上にある、
海のいちばん深いところにはまだたどり着くことはできない、
みたいなことを歌っていた。
もしかしたらそれは技術の進歩によってとっくにクリアされていて、
いまは深海の奥底、地球のいちばん奥深くまで、
人間は到達できるのかも知れない。
でも、確かに歌詞が正確だった時代があるわけで、
地球を離れてちがう星の表面には立てるのに
深海のいちばん深いところには到達できない、
そんな進歩の矢印の方向性みたいなもののちぐはぐさが、
どこか心にひっかかったんだと思う。
 
 
そして、ひさびさに季節鬱ではない自己嫌悪の嵐の到来。
ぐちゃぐちゃなこの感じ。
昔からだいきらい。うまくできない。
人と会うのは、
顔見知りのほうが見知らぬ人よりしんどいことを
強烈に思い出した。
話のネタを探しても特に見つからなくて、
あたふたしんどい思いするのはとても、とても不必要な心労に感じる。
そういう居心地やばつの悪さは大昔から感じていて、
そういうのからとにかく逃げたくて、
一生懸命逃げてきたような気がするのに。
逃げてきたはずなのに、逃げ切れてなど全然ない。
ともだちと会うと心にあかりがポッと灯る。
でも結局、独りになることでようやくホッとして、
逃げられないことを知りつつ逃げ腰になる自分がいちばんきらいだと、
傷ついた心に気づいた時に、同時に気づく。
 
 
文章を書くことを、
いろいろ定義づけたりていねいに手を加えて整頓する人たちもいる。
すごくえらいなって思うけど、同時に、わたしにはできないと思う。
もちろんそれについて講釈を振るったりもしないように
つねづね気をつけてるつもりだけど。
なんていうか、書くことはわたしにとって
決して読むことほど自然じゃなくて、
だからこそ綺麗にまとめたり、起承転結考えたりできないし、
敢えてしないようにしているんだと思う。
そういうことを始めると、
わたしの場合はどんどんうそになっていってしまうから。
どうでもいい話を盛ったり、
耳触りのいい事実ではない形容詞とかで感情をつくったりしてしまうから。
瞬間ごとに刹那ごとにもちろんうそになっていく言葉や感情はあって、
それをむしろ全面肯定しているつもりだけど、
その刹那にさえ否定してしまったら、存在すらなかったことになってしまいそうな
微妙な感情を近しい言葉でただただ書き留めることで、
それをもう一度自分が読み返すことで
(もちろん読み返さなくてもいいんだけど)
その埋もれていた刹那を、その時の感情を思い出すことを、
わたしはすごく大切にしていたいのだなと気づいた。
 
 
うれしかったことも傷ついたことも、
浮かれた感情もバッドスパイラル真っ只中の感情も、
すべては“よどみに浮かぶうたかた”だから、
いつかは思い出せないくらい記憶の彼方へ行ってしまうから、
でもそのせつなさが愛おしくて仕方ないから、
こうやって書き続けているんだと思う。
 
 
すでに消えてしまった昔のブログ以前の日記の
救出してある最古のものは、2000年だったから、
こんなことをちまちま続けてもう十年も経つ、とか思うと
なんと無意味かつ無駄なことを…、という思いと同時に、
たとえルーティンでも十年続ければ一仕事だなと思ったりする。
いつかはこれもすべてなくなるのだろうけど、
こうして書き続けてきたことによって、
救われ慰められた過去があることは事実なのだ。
そして、これまでそうだったように、きっとこれからも
このきつく結ばれた掌が開かれる時が幾度となくやってくる。
もしかしたら、その時のために書き続けているのかも知れない。