テキストについて考察①

梅雨の明けない六月も今暫くで終わります。
なんだか今月は全然綴れずじまいで。
たぶんのうみそにも湿気が回って、いつもより水分過多なのね。
 
 
ずっと以前から言葉でなく感じていたこと、って意外とたくさんある。
そのうちの一つについて考察したい。
 
文章の匂いについて。
ある特定の文章は匂い立つフェロモンみたいなものを発していると思う。
それは書き手の“その人らしさ”みたいなものであり、
同時に作為みたいなものでもあると思う。
だから、その書き手を個人的に知らない場合、
そのイロというか匂いみたいなものをたよりに
「この人の書く文章は好き/きらい」と判別して選り分ける。
 
それから何より一番その匂いを嗅ぎ取れるのは自分の文章だ。
作為的な自分の文章、その作為的な部分を敏感に感じ取って、
恥ずかしくいたたまれなく、きまり悪く感じる。
「なんてうそくさいんだろう」って。
 
自分の文章はちょっと脇に置いておくとして、
そんな作為やフェロモンみたいな匂いを、
まったく一切感じさせることすらない文章というのもある。
こちらにはこちらで分類していくといろいろ種類があるけど、
基本的にはいわゆる「上手い文章」なのだと思う。
書き手の人格を主張しすぎることなく、慇懃すぎず荒ぶらず、
じつに自然に巧みに読み手を話題そのものへ引き込む。
その見事なまでのニュートラルさは冷静な書き手とでもいうべきか。
仕事を頼むなら、たとえ自分の経験談でも感情論でも、
そんなふうに書いてくれる人にこそお願いしたい。
 
 
とはいえ、冒頭にも書いたように、その独特のクセのある匂い立つ文章に、
どうしようもなく惹かれる瞬間だって確かにある。
その時はたいてい、書き手である筆者に興味が湧くのだと思う。
(事実そういう興味をもたせるような書き方もあるし、)
昔読んでいたウェブの連載とかはそうだったと思う。
でもだんだんと、その匂いが鼻につくようになる。
わりとルーティンには耐性があるほうだと思うけど、
その思想や思考にまとわりつかれる。
そしてそのさらっとはしていない感覚にすっかり辟易する。
そんなことは経験がある。
 
 
続きは次回!