テキストについて考察②

結局じゃあ何が言いたいかというと、
文章の外側に魅力を感じることと、
内側つまりは内容そのものに響くことは、
意外と別物だということですよ。
 
もちろん内実ともに充実していればそりゃすてきなことですが、
なかなかどうして、どんなに文章のうまい人でも、
100%そういう文章ばかりというわけにはいかないし、
両方充実していればいいかというとそんなこともなくて、
暑苦しくておなかいっぱいに感じて最後まで読むのが大変!ということも多々ある。
職業的にいえば、いわゆる売文業のつねとして、
おもしろくもなんともないテーマを
いかにも魅力たっぷり風な記事に仕上げないといけないこともある。
(もちろん逆も真なりなんだけど)
 
 
それでだいぶ逸れてきた感のある話を本筋に戻すと、
文章のイロとか匂いは、上の点でいくと外側なんですね。
かといって口調や言い回しだけでもないから、
内容にまったく関係ないかというと
必ずしもそうではないのだけど。
(ものごとの切り口自体に書き手の好みや性質が顕れる場合もあるし)
それは評価する人がいれば評価しない人もいるポイントで、
まるっと書き手らしさ、ともいえるはず。
 
だけどここで自分の話に戻すと、
それを自分としてはできうるかぎり排除したいと考えているのだよね。
しかもかなりのずっと昔から。
 
思い出してみれば、小学校五年生の夏休みの宿題で、
井上靖の「しろばんば」で読書感想文を書いた時に
何度も気に入らなくて書き直しながら、
その感覚と戦っていたことが痛烈にそして鮮明に蘇る。
どう書き出してもただの嘘か小説の筋の説明文になってしまう。
読んでいる最中や読み終わった瞬間の、
あのヒヤヒヤや哀しみや昂揚感をどう伝えるべきかなんてさっぱりわかんなくて、
やはり結局適度に嘘じゃない優等生っぽい落としどころ(と当時は信じていた)でうやむやにした。
 
なんで自分の匂いが好きじゃない(好きじゃないから削げ落としたい)のかは、
感覚的なものだからうまく説明できないけど、
じっさいの自分の体臭とかだとむしろもう好きも嫌いも過ぎまして、
くっちゃくても馴染みがあるとか思ったり逆に余計くさく感じたりするけれど、
文章の匂いについては、どうも嘘くさくえせくさく、
自分のものならば尚更そう感じられるんだよね。
 
 
そういうものをどうやったら削り取って禊ぎして、
純粋なガリガリな身の部分だけにできるか、
ずっと考え続けてきたような気がするんだけどね。
それをちゃんと禊ぎで実現できるようになったらば、
わたしの書くステージはもう一つ先だか別だかに進めるハズ。
そんなふうに思うのです。
だからわたしは公私かかわらず書き続けるのです。