すべすべのコロコロを目指して

この冬の年末年始は、のっぴきならない事情により、結構な期間を何もない郷里で引きこもるという状況になったので、感じの悪い編集者の仕事をしつつ、いろいろなことをくつくつと考えたりしていました。
日常に追われる中で、ふとした瞬間に感じる違和感のこと。その正体と根深い奥にある原因。違和感に鈍くなっていくことはたぶん、十代だった私がもっとも怖れ忌み嫌っていたこと。それでもつい押し流されて追いやられてしまいがちな尻尾を、必死でつかんで少しでも具象化して記憶したり、蘇った時に端っこをちぎるようにどこかに書き残したりすること。そんな些細な方法でしか、流れ進んでゆく想いを繋ぎとめることはできない。

だれかの信じてることをぶっ壊したかった気持ち。それはたとえば、某メーカーBのCMから彷彿とされるホストパパの祖国製品大好きだった感じとか。それってCM(という枠の中で誰かが作り込んだ計算通りの意見)に惑わされてるだけなんじゃないの?というちょっと意地悪な目線で見ていた。同時に、なんだか無垢に信じ切っているらしい概念を、思いっきり根底から覆したいような欲求を感じていたと思う。今になって思い返せば、当時パパは40手前で、あくまでも余所者の私は気づかないフリをしていたけど、祖国ではない土地で職も転々としていて、意外と人生の歯車が狂ってるかも知れない…とか、いつしかこのまま間違えていたことに本当に気づいた時には既に遅い、なんてことになっているんじゃないか…とか、人知れず恐々としていたんじゃないだろうか。そんな漠然とした不安の靄みたいなものの先にある屈折した郷愁だとしたら、今ならわかる、今の私ならば。でもあの頃の私はただひたすらに若くて青すぎてキラキラに目が眩みすぎていて、違和感を覚えるものは大抵気持ち悪くて受け入れがたい差異のもとがあるからだと決めてかかっていた。
そんなパパも10年と会わない間に、2度ほど心臓発作を経験したとホストママから聞いた。お酒も煙草も博打も一切やらなくて、飲むのはペプシ・コークだけ、日本食も嫌いで基本変わったものは食べないけど、そんなに不健康というわけでもないだろうと思っていたけど、やはりアメリカ人だから偏頭痛がすると言っては錠剤をいくつも噛み潰し、油分の多い食事が大好きで偏食だよなぁ、と思っていたとおりの成人病なのだろう。久々に写真で見たママも以前に増して丸く大きくなっていたけど、私の中にいるあの家族はきっとずっとあの頃のままなのだろう。それは同時に私も彼らにとって17歳のままだろうということなんだけど。
誰かのガチガチの価値観をぶっ壊すことなんて本当にはできなくて、もしかしたら誰かのを壊してるつもりで角が取れていっているのは実は自分の価値観の方なのかも知れない。誰かのそれに違和感を感じ、対峙して向き合うことで、理解し、違いを受け入れてカドカドがとれて丸く滑らかになっていく。そうだとしたらとても好いのに。どうやったら偽善じゃなく人を大切にできるのか愛せるのか、頭の悪い私はやっぱりちっともできないけど、触る掌をいちいち傷つけないつるつるの石コロみたいになれれば、少しずつでもわかるようになっていくのかしらんと、淡い希望とともに思う。