一事が万事なのだと思う

…そういうのって習慣じゃない?

なんというか、占星術でいうなら山羊座さんらしさを十二分に持つ私としては、納得のいかないことは気に食わない。半身動かなくなった父が、内臓機能自体は(たぶん私よりずっと)健康体なのにすぐ「だめ」だの「死ぬ」だの言うのは気に入らないし、仕事で優先すべきことがあるとはいえそのために誰かに嘘をついて便宜を図ってもらうような真似はできなくて正直に嫌な役回りをやり通すし、ずっとここ一年くらい後ろ向きでどうも元気も覇気もない先輩は気掛かりだし。
先天性の性格として、できるだけいろんなことに肯定的かつ公正でいたいのだと思う。昔からのド鬱なことだって、落ちるとこまで落ちればあとは浮上するしかないから、というある意味ドMな逆説的なものの上に成り立っているし。
だから、話をしていて、どこか自己防衛的(しかも未然なのに)な姿勢とか、卑屈さを滲ませて憐憫を誘うような(誘いかねない)物言いとか、ネガティブだったり後ろ向きな振る舞いにはちょっと鳥肌が立つ。よく知っている友だちや昔からの仲なら、それがどの程度の本気や本音かは聞かなくても真意はだいたいわかるけど、まだそんな仲良くない人のそれはわからない。知り合ったばかりのころは、笑うたびに口元を絶対手で隠す人がいて、気になって気になって仕方なかったけど、実際仲良くなってみれば気にならなくなった、というかそんなクセはなくなっていた。つまりたぶん、馴れるまでの自己防衛や人見知りの仕草だったんだなぁと後から思った。
もしかしたら、私が馴れない人に対して威圧的なのかな。だからみんな自分を守ろうとなさるのかしら。それはそれで私の自己防衛本能の結果としての威圧感かも知れないけれど。ただ冒頭で書いたように、そういう姿勢って習慣だと思うのです。それが生き方そのものをあらわしている。乱暴な言い方をすれば、入り口が卑屈な人は何に対しても始めるときは自己否定してから入る。最初が威圧的な人は物事を始めるときできなくても上からの態度で挑む。どちらが正解かなんてないけれど、そのどちらを好むかは性質によるから、私は後者を選びたいのだろう。
根本にあるのがいつでも「いつかくる自分の死」だから、だからこそ少しでも楽しんでいないともったいないと思っている。一歩間違えば刹那的になりかねない危険性も孕みつつ、地に足を着けた上で酸いも甘いもかみわけながら、生きることを満喫していきたいのです。まだまだ青いのは、そうじゃない人を許容できるだけの深い懐がないことです。