秋が深くなって心が慌ただしくて。

もう10月も終わります。今月は全然文章が書けない。何かにとまどっているのか、誰かとつながりすぎているのか。はたまたただ単に仕事で急に書くことに追われて、筆に余裕がないのか。夏の終わりに知り合った人と気づけば、ここのところ週一で会っていたり(!)する状態に、気付きもしない…みたいな。なんだろ。なにかを見て見ないふりをしているということか。いやでもそんなことないよ。実際、先月、先々月とほぼ週一で会ってた人(たち)もいるけど、そんなんフツーだし。ご近所だし!これみんなある意味ご近所だし!! …なんてあせるとまるで本当みたいだから困る。そんなことないです。とりあえず校了前で頭の中がずっと先々週くらいから多忙だから、いろんなことが見えてないだけ。本当は嫌われてるのに勝手に友だちだと信じこんでたりしたら申し訳ないけど。そんなに見えてなかったら、いやもう仕方ないよね、手の施しようがないよね。あ、それに思い出したけど、それを言うなら、夏前に知り合ったコ含めのメンバーともある意味週一みたいに会ってる上に、LINEのやりとりの頻度は半端ない。やーこの年齢になっても新しい友だちができるという自分にちょっと驚きつつ安堵する、みたいな感じですよ。…だんだん誰に向かって言ってるんだかわかんなくなってきた。今日はまとまりのある文章なんて書けやしない。これもある意味ほんとは現実逃避なんだから、整合性うんぬんとかまとまりとかやおいとか思ってないで、さっさとタイトに詰まりすぎてる本業の原稿に戻ります。お粗末。

金木犀の香りにまみれて幸せ

今月は校了月。気がつけば月も半ばにさしかかり、やることばかりが増えていく。かろうじて半分程度の衣替えは済ませたけれど、模様替えは済んでいないし、仕舞うべきものもまだ外に転がっていたりする。宿酔いするほど飲み歩いてる場合じゃない。浮かれて旅行で温泉とか楽しんでるからなんだけど、それはそれでストレス発散になって気持ちよかった。だけど何かに追い立てられるように、楽しみばかりを追い求めているみたいで、ちょっと刹那的に度が過ぎているのでは…、と極端に引きこもって反省し、突発的にどかんと遊び、を無作為に繰り返しているような気がする。それはそれでちょっと危険な感じ。

ループに入るのはいやで、でも酔うとダメな反応を示し、仕事だけにかまけていると心が死んでゆき、大好きだった人やことにも最近真正面から手放しで好きと思えなくなっていたりして。常に変わり続けたいなんて思っていないまま大人になったけど、本当は常に変わり続けることを、心底では願っていたのだろうか。変わり続けていないと飽きてしまうのだろうか。そんなに薄情な思いしか私にはなかったのだろうか。移り気な部分もあるけど、同時に一個の遊びでずーーーっと遊んでいられるくらい、単純作業が向いてる方なんだけどな。だけど、ひとつだけ言えるのは、心が踊り出すようなときめきにはまだ出会っていないということ。まだかなあ。まだかなあ。待ってるんだけどなぁ。

昔、ひと目見た瞬間に心をわしづかみにされたモノや人に、今月運命の再会をします。出会った頃と同じくらいに今回も衝撃を受けるはず。そして「そういえばちゃんとサヨナラを告げていなかった」ということに気づきます。それは反対に言えば「ずっとつながっていた」ということでもあるのです。

そんな不思議な再会は、おそらくとても賑やかな場所で起こります。例えるなら7人の小人と食べて飲んでどんちゃん騒ぎ...というようなシーンです。子供のように無邪気に遊ぶ人たちや空間のなかで、あなたは、過去うっかりその場に置いてきてしまったあるものを見つけるはず。形のあるものに限らず「かつて抱いていた情熱」が、デジャヴのような感覚で蘇ってくるのかもしれません。
ーーーーーーharuの恋占い 10月

香れども姿はみえぬ金の花

中秋の名月を眺めたのち

9月後半は予定が立て込んでいて、あれよあれよといううちに、もう今日からは10月となりました。さみしい、とか思っていたつもりが、そんな暇もうっかり見失うほど、愛すべき人たちとちゃんと楽しい時間を過ごせている、そのことにはきちんと感謝をしなければいけないと、今一度振り返って肝に命じる日々です。
ばかなことをしなくても、すっきりとシンプルに目を向ければ、そこにはこれまでの人生で確かに築いてきた、あたたかく心地よい存在が少なからずいてくれて、その空気にも近いような当たり前の存在は決して当たり前ではない、そんなことももう一度、自分に言って聞かせている。
そして9月後半の九州旅を経て、目に見える一つの側面だけがすべてではないということ、それも再度深く刻まれたと思う。人間とは、人間関係もおしなべて、多面体的であり、一つの方向から見えるカタチだけで判断してはいけない。それが事実であることは真実だけど、そのことと同じくらい、また別の面から見た事実というのも存在するということ。
以上三つのことを、心地よく首もとを通り抜ける秋の風によって、頭を適度に冷やされながら噛み締めている。

心地よさにまるで秋眠

今年の夏は遊びました。めいっぱい、と言っても過言ではないくらい。あれやこれやと充実した日々で、少し力も気持ちも抜けている秋の始まりです。でもゆらーりゆたーりと予定を詰めすぎず、割と暇な日々で過ごすのもよいです。海にも山にも温泉にもバーベキューにも花火にも行ったし。花火しなかったことだけが小さな心残り。でも楽しかったからいいかしら、と。
秋の空気は、少し心をクールダウンさせて、だからこそ小さな機微に敏感になっている。そして、落ち着いたからこそ、勢い任せになんでもかんでもオープンにするより、少し秘めやかな匂いを楽しみたい気分になってる……なーんて言いながら、全然まだ何も始まってもいない上に、どう思われているのかも全くわからないのだけど。そうなのだけれど、相手にも自分にも小さく期待しながら、ちょっとこのまま密やかな空気感を湛えていきたい。

さて来週は九州に飛びます。ビジネスではなくプライベート。美味しいお肉とお魚が食べられる予感でワクワクです。ここのところ不摂生が続いて、ちょい肌と腸の調子がよくないし。あ、関節や骨にも出ていたのが、ようやく治ってきたというところです。土曜の筋肉痛がとれてもまだ首に違和感があったら、もう一回整体に行ってみよう(備忘録)。

今年はずーっとマキシ丈の気分が来てる。スカート限定でふくらはぎより下を包む丈が心地よい。さわやかさを増した風を大きくはらんでふんわりとふくらむ布地が気持ちよすぎて目を細めてしまう。ハイウエストとかジャストでなるたけ細い箇所を強調して着こなしたい。なのに加齢で出てきたおなかは気になる。もう少しうまいこと自分の身体をコントロールできるようになりたい。それにばっかり心を砕いている間に、気がついたらこんな大人になってしまっていたけど。もともと扱いづらい、もといメンテに手のかかる身体なのに、さらに小さな兆候をうっかり見て見ぬ振りしがちながさつさと相俟って、すぐ調子が悪くなりがち。それをやっと大人10年目にしてだいぶましに扱えるようになったけど、ほぼそれしか見えてなかったから、いろいろと追っついていないのだろうね。

そして、こんなに過ごしやすくステキな夜長に不摂生極まりない夜更かしの悪癖が尾を引いていて、春眠ならぬ秋眠あかつきをおぼえない感じでつらい。眠くて仕事は立て込んでいなくて人が減って日々はちょっぴり淋しくて、その感じがいかにも秋のセンチメンタルと似合いすぎて心がきゅんきゅんする。一人でどこか遠くの海とか目指して高速を只管飛ばしたいような気分。その先にあるのがたとえ霧雨に濡れそぼるグレーの砂浜と荒れた外海だとしても、それすら親近感を持って受け入れてくれるにちがいないから。

終われど終わらねど終わらねば

夏が終わる。
終わりが既に交じっているのを、ここ2,3日確かに感じる。夏の終わりは夕方から来る。その時間帯がだんだん夜や昼に少しずつ進出していって、確かに夏が終わって秋がやってくる。具体的にいうなら、今日はもう14時すぎが終わりに侵食されている。そしてそれは心地好い。暑すぎる汗塗れる季節から、心も身体もクールダウンして、節度や装い、心の距離感を保つ快さを取り戻す季節へと移行していく。
行き過ぎたり飲み過ぎたり、度を越してしまいがちな夏は、楽しいけれど確実に片手落ちで体力も落ちる。そこを細やかにメンテナンスして、ちょうどよい自分を取り戻していく。そんな秋がやはり好きだと思う。そしてもう既に二週間くらいは待ちわびている。いくらみんなに「もう来るよ、もう終わりだよ。もう夏は終わりになるよ」って言っても、全然信じてもらえないけれど、やっぱり季節は移り変わっている!気がついたら急に置いてけぼりにされるより、今か今かとビクビクしているほうが、結局性分にあっているんだよね、なんてちょっと拗ねた気持ちになりながらも、待ち遠しい次を待っている。

正しさを迷いながら究めていく

美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、
成金は俗悪な大邸宅をつくつて大いに成金趣味を発揮するが、
それが万人の本性であつて、毫も軽蔑すべきところはない。
そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、
正しいことをも愛するのである。

人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、
同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、
男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、
悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、
人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。

                          ――「デカダン文学論」坂口安吾

私はいつでもそちらに引き寄せられている。きちんと理詰めで説明できるほどの精密性も持ち合わせていないのに、正義に適うかどうかがとても気に掛かっている。自分の中の常識にとらわれすぎているのかも知れないと思ったこともあるけれど、そういうことではなくて、逐一手にとって正しさを確認しているのだとようやく気づいた。正当化するのではなく、釣り合うだけの理由を用意するのでもなく、純然な事実だけを切り取ったときでも正しいのかどうか。無理に歪曲したり屈折したりしていないかどうか。
おそらく安吾が言わんとしていることとはちがうけれど、怠惰さや性悪さみたいな、坂道を転げ落ちるような堕落に流されやすい部分ももちろんあるのだけれど、同時にだからこそ根本から美しく正しくありたいという欲求を本能として持ち合わせているんだよと、言ってもらえたようで、ほっと胸を撫で下ろす。みんながみんなこぞって、ワイドショーやメディアに共通の正しさみたいなものを求めるけれど、そこではなくて、自分の中にも血とともに流れている、あたたかでしなやかで確かなものを確認していたいしいきたいと思う。

ネイビー×ピンク

この週末は浴衣を着るべくネイルを更新。最近は変えても撮るのがなんだか億劫だったからひさびさにアップ。というのも、なかなかうまくいったから。でも格子柄の浴衣を着るわけではないのだけどね。