ぐらぐらだけど決めたの

冷たい雨が降っております。12月に入る前からかなーり防寒対策に念を入れていたら「今からそんなで真冬どーすんの?」って言われるという。。どーもしませんよ。まだまだただ重ねるのみですよ。うすくてあったかいやつとか。なんだか非愛情を感じて拗ねたい気分になりました。大人ですから拗ねませんけど。
この週末は、久々に取り乱しまして、各所ご迷惑をおかけいたしましたことを心よりお詫び申し上げます。って言っても関係各所はここの場所を知らないのだけれど。無意味。しかし心の重荷は軽くなるかもかも。しかしながらやはり、どれだけ怖くても待つのがベターな気がしていて、でも放置はまずいからとりあえず2週間と期限をつけて待とう体制なのですが、それでも怖くてつい検索とかしちゃってさらにびびるという悪循環のドツボにどっぷり。だけどうっすらな希望は些少な変化を見て見ぬ振りしない限りうしなはれてしまったのだと勘付いています。いますってば。だからできればasap極限物理的な痛みを伴わずにやってきてほしい。もうしっかり傷つきましたから。一人でこそこそ涙を拭くのも、人前で止まらなくなるのもそろそろしんどいです。さらに年末年始の連休を思うとそこまでは引っ張りたくない気持ちで満載ですわ。これ以上の人を巻き込むわけにはいかねえってやんでえばーろーめえ…みたいな。
まあ仕事も校了に向けて加速してくるし、忙殺される波とイベントシーズンのお誘いに身を任せていればきっと、むちゃむちゃ七面倒かつ真暗闇な下手な考えは休むしかない感じだからきっと大丈夫なはず。身を任せるって決めたのでしょう。どんなことも受け入れてまるっと許容して前へ進むって決めたのでしょう。

日々変わるから振り回されて

なんと。。衝撃の事実。
とりあえず座って落ち着いて考えてみよう。とか思いつつ、予約しちゃってたから予定をこなして各所へ連絡。一晩寝たら落ち着いたような気がして、調べごとしてみたら、また心が粟立ってしまった。そしてまたもや心優しき人々を頼ってしまうようです。。

ひとりじゃない

ものすごく不安定。楽観的になったり悲観的になったり、必要以上に自虐的になったりグラグラしている。おそらくこれがいわゆる…なんでしょうけど。こんなんで乗り切れるのかな。
今週はひさびさに大好きな人が会いにいらしてくれて、涙も何粒か落ちたけど、楽しかったし救われましたです。はい。現実味がないとか、あまいのかなとか、ぐるぐるいろいろ思うけど、決めたからには誠実に、「目の前にあることを丁寧に」進めていくしか、確かにそれしかない。でもいつだってそうだけど、人には恵まれてきたから、それに甘えちゃだめなんだけど、どうしてもちゃんとぜったい大丈夫な気がしてならない。もちろん辛いことや苦しいこともいっぱいあるけど、それでさえちゃんと力にできるように受け止めていくことができれば、そのことをがんじがらめになって見失ったりしなければ、きっと、きっと大丈夫なはず。
なにしろ私はひとりではない。常にいつも誰かしら、とても心があたたかくて情に厚い、そして賢い人たちが、そばにいてくれるから。アンコンディショナル・ラブ。無条件に誰かが自分を大切に思ってくれる、なんて、親以外いないものだと思っていたよ。でも、そういってくれる人がいるということ、ちゃんとそういう人間関係を築いてこられたんだということ、すべてに対してものすごく真摯に感謝しなくては、と思う。
少し気持ちも落ち着いたので、満を持して、心平らかに、その日を待とうと思う。…いまさらどうにもならないしね。(←ってやっぱり自虐が顔を覗かせるw)

どんどん冬へと。

久しぶりにMの芝居を観に、吉祥寺シアターへ。サークル友のMちゃんにお付き合いいただきました。昨年の「サンタクロース会議」以来だったらしい。
そして演目は、これまた10年ぶりとなるらしい「もう風も吹かない」。Mたちの卒業公演として、初演された作品をもう一度。今回こそはちゃんと感想を書こうかとも思ったわけですが、なんだかそれどころではなくなってしまったので、そして一緒に観たMちゃんとがっつり食べながら話したので、もういいかなと。
人生で初の「おめでとうございます」を曇りの寒い金曜日に言われた。ちょうど今、よしもとばななの「アムリタ」を読み直しているのだけど、こういうのはきっと無意識の下の方が、自分でも気づかないうちに故意に選び取っているんだよね、とか思いながら読んでいたら、まさにその表現が出てきて、こういう考え方自体がここから習ったことじゃないかと思って笑えた。
ここに表題としても出てくる“おいしい水をごくごくと飲むように”という表現はとても、とても好きだ。この言葉を借りるだけで、わたしが本当に伝えたいことが、すっかりそのまま伝わればいいのに。思っていること、感じていることを、しぐさや動きの表現だけでダイレクトに、心のスポンジに染み込ませるように伝えるほうがきっと本当はよいのだけど、もうそうする時間はない時には言葉を尽くすしかない。だけど、それはときどきとてつもなく困難で、途方もない壁に向かって言葉を投げかけているような気分になる。こっちを見ているようで見ていない人には、どんなに心を込めて言葉をかけても、伝わらないということか。

秋の日はつるべ落とし。そのままの陽が傾いていく井の頭公園を、久しぶりに散歩。と言っても、何年ぶりとかではなく、実は今年は春に引き続き二度目だったと気づく。
あまりにもここのところ感傷的になりすぎていて、些細なことで心が激しく揺れ動く。まるで思春期のよう。人と一緒にいることがうれしくて楽しくて、ただただ多幸感に満たされている時は、片手落ちのハイ(ちなみにこれも「アムリタ」からですね)で、それすらわかっていても頬が緩んでしまうから、たちが悪い。だけど、同時にびっくりするくらい悲しくなって悲観的になったり、些細な事で涙が落ちそうになっていてドキドキする。

秋はいい。短くて切なくて、ありえないほど美しくて。そして大好きな冬がもうすぐやってくる。たいてい立て込んでいるのに、どこかさみしいのが毎年のことで、今年はなんだか早くから楽しげな予定が入りそう☆と思っていたのに。これからまだまだどうなるかわからない。そういう状態としては楽しめる。だけど、人が困惑した顔をしているのは嫌だ、と思った。

さわやかに近づく冬の足音

明日は15年来の友だちのお誕生日。年に数回しか会わなくなっても、彼女のことをとても誰より(当時の恋人より)好きだった頃のことを強く思い出す。そんな振り返る意味でも貴重な日。今年はたまたま土曜日で、前々から決まっていた旅行へと繰り出す予定だけど、多分心のどこかで、チリチリと小さな鈴が鳴るみたいに、その面影を思うのだろう。あの頃は予想もしていなかったような人生の出来事が、当然彼女にも私も起きていて、それでも現在が不幸ではないことは、きっと少なくとも太陽の方を見続ける努力だけは怠らなかった結果だと思いたい。太陽の方を、健全な方を。悪よりは善を、冷よりは温を、暗よりは明を、下よりは上を、もちろん両極端な事柄は、どちらも必要だけど、どうしてもどちらかを選ばなければいけなくなった時に、胸を張れる方を選ぶ。そんな風に生きていくことを、あの頃、あの場所で学んだのだと思う。あれだけ夢中になれることには、今は出会えていない。なぜあんなに楽しくて面白くて、日々それだけに夢中でいられたのか、それはきっともう答えは出ている。だけど、それが一番大切なことじゃない。それさえももう知っている。念願の母となった彼女と、もう一度深く、それこそあの頃みたく語り合う日はきっとまた来るだろう。それがまた15年くらい先のことだとしても。その日が心から楽しみだ。

閑話休題
冬将軍の足音がだんだん近づいてきているよう。北海道では雪がチラついているとか。今年の訪れ方は、私好みだといいなあ。ここ数年なんだか気が合わない感じだったから。冬将軍と息が合うと、ちょっと良い冬になるんだよね。ちゃんと寒さに包まれるというか、だからこそ余計にぬくもりのありがたさを知るというか。今年は雪が降るといいな。いや、歩きにくいし電車止まるし、都会では大変なのだけどね。それでも銀白の世界で、音も立てないかのように降る雪を、時が止まったような空間の中で見つめたいのだよね。それがたまらなくどうしようもなく好きなのだよね。…ちょっと気が早いか。

「魚と酢」月間

お疲れなのか、何の揺り戻しなのか、とにかく先々週からずーっと「魚」と「酢」を無意識に強く求めている。「魚」は、海でも河でも、魚も貝も、生も揚げたのも焼いたのも魚介ではなく魚貝ならなんでも。「酢」は米酢や三杯酢だけでなく、ビネガー的なものも。ここのところだんだん寒くなってきていて、温かいものを食べたいと、頭では(胃も?)思っているのに、口というか舌が多分、酸いものと魚貝を欲している。だから必然的に、鮨屋に行く、パック寿司を買う、洋<和のお店を選ぶ、みたいな感じになって、鮨を食べたり、焼きサンマ(今年初物だった!)を食べたり、しらすを買ったり、刺し身を盛り合わせてみたり、キャロットラペを作ってみたり、マリネを頼んでみたり、とにかく何か食べようというと、断然魚と酢の方向に流れている。
もともと海の近くで育ったから、魚の方が食卓にのぼる確率は高くて、さらに魚が好きだったから、弟は肉、私は魚、みたいな別メニューで出されていた時期もあった。だけど、こうして社会人として働いてみると、肉というタンパク源のすごさを思い知るというか、肉が血肉を作るのは事実だなと実感を込めて思うようになった。だからなのか、社会人になってからのお友だちや諸先輩がたには、かなり「肉好き」のイメージが定着しているみたいだ。だけど、どっちが好きと問われれば、おそらく即答で魚派であることは、昔も今も変わらないと思う。もちろん肉も好きだけど!と付け加えることも忘れないけれど。
そのうち魚が食べられなくなる時代が来るかも知れないとか、福島から漏れている汚染水の懸念をするととてもじゃないけど国産の魚なんて食べられないとか、いろいろいろいろ言われているし、きっと本当の問題もあるのだろうけど、自分勝手を承知でいえば、食べたい時に食べたい魚が食べられることはなんて幸せなんだろうと思う。生命をいただいていることは百も承知で、それが私の血となり肉となっている。それをただ感謝して、でもループみたいにして食べ続けていく。そして、きっとまだまだMY魚ブームは終わらない予感がする。